都会の生き血を吸って生きる

年が明けました。

神奈川に越してきてからほぼ1年

10年振りぐらいに生活圏を関東に移してみて、改めて、都会というか首都圏は独身者にやさしい場所なんだなぁ、と。

まず、夜遅くまでやっている飲食店が多い。名古屋では狭い生活圏内にあるのが すき家 ぐらいしかなかったので、すき家とコンビニ飯のローテーションでしのぐしか無かった。それに、終電が遅いので仕事で遅くなって帰るときに一杯飲んで帰ることが出来る。通勤は当然電車だが最寄り駅は古い下町で店が開いていない。その代わり都心部の飲食店を使うことが出来る。首都圏は「都会」と「田舎(ベッドタウン)」の距離が近く、首都圏のインフラが全て都心への通勤に最適化されている。これはなんやかんやで車社会である東海地方では考えられないことだ。

実は、こちらに来る直前まで車を買うことを検討していた。今回の転勤(長期出張)でそれは完全に白紙になってしまったが、こっちでは車を使う必要性がほとんど無いので、費用対効果を考えたら購入を検討するのはナンセンスだ。
車を使わなくてよいということは、飲酒運転を気にする必要がないということで、それなら酒飲んで帰ってもまったく問題ない訳で。実家では名古屋に通勤するために電車を使うものの、電車に乗るための駅に行くまでに車が必要になる。仕事帰りに酒飲んで帰るなんてこと以前では考えられなかった。
アニメや漫画で「親父が会社帰りに飲んで、ヘロヘロに酔っ払って帰って、お袋に閉め出される」なんてのがあったが、田舎ではそれは幻想でしか無かった。それが首都圏ではありえる話で、『ああ、やっぱりアニメ世界は東京の話であって名古屋なんて田舎を舞台にする作品なんてあり得ないんだな』と納得してしまった。1世帯に1台以上のマイカーがデフォルトの田舎住みのガキにとって、ドラえもん野比家やサザエさんの磯野家のような中流家庭にマイカーが無いことも不思議で不思議でしょうが無かったけど、アニメも漫画も、東京以外は存在しない世界だったんだと考えればなんら不自然では無い。

画面や紙面の中にあった世界に住んでいる

感慨深い物はあるが、それでもなにか釈然としない。自分は独り身で、野比家や磯野家のような家族単位で生活していない。メシは外食で自炊しないし、部屋は賃貸マンション1DK6畳ユニットバス。言ってしまえば「ちょっと広いビジネスホテル」ぐらいなものだ。ちょっと寝泊まりする仮の宿。そこに家具を追加し趣味の物を置き、自分の城にするべく必死に改造を行う。それでもこの部屋の所有者はマンションのオーナーであって俺じゃない。どれだけ改造しようがそれはあくまでかりそめの城でしかない。永遠に暫定の寝床。

都会というのは独身者が暮らしやすいようにインフラを提供してくれているが、それらは公共の物であって俺が金を払って借りているだけだ。金が続く限りは使えるが資本が尽きれば追い出される。それを解ったうえで、立ち退くことを前提に生活する。それが当たり前の世界。

ちょっと前に「ミニマリスト」というものが流行って一気に廃れた。今でも「ミニマリスト」を続けている人はいるようだが、彼らの「最終的な落としどころ」はどこなんだろう?
ミニマリストたちは「モノを持たない」ことを是として、「今必要なモノ」だけを残し「不要なモノ」を排除する。ところが、「今必要なモノ」であっても「借りれるなら持たない」「自分の住処にモノを置かない」さらに「今後必要になる可能性があるモノ」であっても「今不要だから」と身の回りをバサバサと削除する。保有できるバッファや保険を自ら削っていくのは悪手に見える。
確かに、金を払えば取り急ぎ困ることは無い。が、「金を払えてもそもそも欲しいモノの在庫が無い状態」なんてことは有るわけで。ジャスト・イン・タイムで入手できる生活に慣れきってしまうとそれを忘れてしまうのだろうか。

自分だって偉そうなことは言えない。
必要な物があればAmazonで買う。可能ならコンビニ受け取りを使う、つまりコンビニを宅配ボックス替わりに使う。購入処理を行ってから早ければ翌日にコンビニに届く。Amazon、流通業者、コンビニという都市インフラを使って現在の生活を成り立たせている。もうこれらは「インフラ」と読んで差し支えないレベルになっている。住処は賃貸、移動は電車、メシは外食かコンビニ、暖房はエアコンで電力、手狭になって実家に荷物を送るときは宅配便、オナニーのおかずはエロサイトとKindleつまりネットワークインフラとサーバ。そのインターネットもプロバイダのアカウントを使ってプロバイダのサーバを経由、つまり間借りしてアクセスする。ついでに言えばこのブログだってはてなのサーバを借りていることになる。ローンをして購入したバイクだって、ローン中に払えなくなったら取り上げられる。ローンが終わって晴れて自分の所有物になったとしても、車検を通し税金を納めてナンバープレートを付けなければ運転することは許されない。つまり「運転するための権利」を国から借りているのと同じだ。運転免許も同じ。

何一つ「所有」していない

「所有」せずに「使う」ということはいつかは「返却」しなければいけないし、何かあったときにそれらを俺から取り上げられる可能性があり、それにおびえて生きなければいけない。
これらが無くなったら生きていくことはできないのに、それらを企業か、日本という国か、あるいは自分以外の誰か個人に握られている。

「握られている」という表現は良くないかもしれないな。どうやったって人間は生まれた以上、その国や文化に「生かされている」のは逃れられない事実であって、今更言ったところでどうしようもない。だけど少なくとも、都会というシステムは他者への依存度が田舎のそれより大幅に高くせざるをえないような形でしか成立しない。都会で他者への依存度を下げるためには、田舎よりも大幅な大金をはたいて買い取る以外方法が無い。一部の裕福な人間意外は不可能だ。

都会は俺たちを生かすためにインフラという生き血を提供する。
俺はずっと、都会の生き血を金という原資と引き換えに分け与えられながら生きている。

一見Win-Winの関係に見えるけど、都会を買い取って所有することはできない。都会は俺を不要と判断したらあっさり切捨ることの出来る強者の立場だ。

自分のように社会に貢献するわけでも無くひたすら生き血を吸うだけの人間がその都会から切り捨てられずに生きている。

なんで俺はこんな所に居られるんだろう?

本当に不思議で仕方が無い。