いつものマクドナルド。なんだかここのコーヒーは薄く感じる。

淘汰と進化

けさの日経新聞に気になる記事があった。情報処理技術者が不足しており、転職し得んサイトが技術者の目につきやすいサイトにバナーを出すのに力を入れる、といった内容だった。

そうか不足していたのか。そんな事は「今さら何を」という気がしないでもない。「元々足りてなかったんじゃないのか?」とも思うし「みんなハードワークを押しつけられるんじゃ足りなくもなるわなぁ、自業自得だろ」とも思う。また、「『使えない奴』が多いんだろうな、だから数ふやすしかないのかなぁ」などとも思うし、「エンジニアを軽視しすぎなんだよ、その結果なんだコレは」とかも思う。なんにせよ原因はどれかひとつだけではないし、ソフトハウス毎、ユーザ毎、エンジニア毎、に事情がある事も十分理解はしているつもりだ。なんにせよ今まで「なんとかなってきた」さまざまな事の折り合いが、現在つかなくなっている、という事は間違いない。いや元々折り合いなんてついていなくて今やっと表面に出てきただけなのかも。別に人手不足なのはこの業界に限った訳じゃない。長期的に見れば今単に足りない時期なだけであって、実は大した事ないのかもしれない。

どんな業界でも「淘汰の時」はあるだろう。技術者を集める事ができずにつぶれていくソフトハウスやメーカ。技術や仕事量についていけずつぶれていく技術者。コストが支払えず手放すユーザ。時代にそぐわず捨てられていく技術。本当にそれで良いのだろうか。「これは淘汰である」と消えるだけでいいのだろうか。皆、納得できるのか、それで。

俺はいつも「自分は技術者としての適正があるのだろうか、向いているのだろうか」と思っている。
「技術者は捨てる時には捨てなければならない」
というのが元上司の格言だった。使えない物は使えないのだから、時を見計らって気持ちを切り替えよ、という事だと理解している。理屈は解る。が、心がそうさせてくれないし時期もはかれない。ひとつのアルゴリズム固執してしまう。「技術」は「実現」するための道具だ。俺は道具に愛着を持ち過ぎるのかもしれない。いままでの俺を振り返るに、他人よりも道具を優先しかねない、と思われる。なぜだろう。道具は道具でしかないのに。

これから技術者として生きるなら、自分は「捨てる」事を覚悟していかねばならないだろう。もしかするとそれを恐れている事が、新しい職場を探す気にならない一つの要因なのかもしれない。捨てる度胸が欲しい。手持ちの道具を捨てても「新しい道具を創れる」ぐらいの勇気がほしい。