『書く』という事

文章を書くという事と、その筆記具は、タイヤと路面の関係に似ている。不意にそんな事を思った。

一か月ほど前まで、俺は文章をPC場のvimエディタとMS-IME or ことえりで書いていた。Vimはコンソール上のVim6.3かWindowsMacOS X上のgVimMS-IMEことえりはそれぞれプラットフォームの標準IMEだから。職業柄の好みという奴で、別にmemopadだろうがWordだろうがemacsだろうが使えない事は無いだろうけど、多分苦痛が伴う。俺にとってVimを使っての入力はストレスが少なく、だからソースコードだろうがSQLクエリだろうが報告書だろうがともかく一旦はVim上で入力する事が習慣になっていた。

こうしてある何かのソフトウェアを使い始めると、ずっとそれを使うようになり、他のソフトウェアを使わなくなる。FirefoxもThunderbardも使い始めはなにか理由があったと思うのだけど、今別のソフトウェアを使う理由が無い限りやめる事は無さそうだ。これはもはや習慣でしかない(だから良いとか悪いとかは別にして)。

さて、一ヶ月前に仕事を辞め、それまで一日中PCの前に座らなくなってから、文章を書かなくなった。正しくは文章を書くタイミングが無くなった。PC上で書く事が習慣になってから長かったので、他の手段で文章を書く事がためらわれ、文章を書く事自体を止めてしまったのだ。それまでも日々のメモをテキストファイルに残したり、日記兼「生存フラグ』として友人達から見える形でWeb上に公開してはいたのだが、それも今はやっていない。そもそも仕事の「ついで」で書いていたような物だったから、大きなキッカケが無いと書く気になれなかったのだ。

ところが、いざ文章を書かなくなってしまうと、頭にバッファされている"何か"が腐敗してしまうのではないかという気分になってくる。なんだかわからないのだけど、ともかく何か書きたい、dumpしたい、というような感じ。そして今まで「文章」を書くのには使わなかったrotringの万年筆でダイソーで買ってきた5mm方眼のレポートパッドにdumpしたものがこの文章である。

こうして万年筆で書いていて思ったのが冒頭で書いた「筆記具の関係はバイクにおけるタイヤと路面の関係に似ている」という話だ。紙とペンで文章を書くというのはキーボードとエディタで入力するのが当たり前になった俺にはかなりの抵抗あるいは摩擦に近い。まず、漢字が出てこない(読めるけど書けない)。そして字がキタナイ。他人に見せるのはあまりにも恥ずかしい。また、「後戻りできない」という心理的なモノもある。ともかくエディタでの入力のように思った事をダァーっと打ち込んで、編集はとりあえず後からでオッケー!という「頭とのシームレス感」が低い。そのため頭で考えた事をレポートパッドに出力される前に(1)脳内での文章の編集(2)ケータイで漢字を確認、の2ステップが必要になってくる。ところが出力に慣れてくると(1)のステップが減ってくる。紙に文を出力する処理がどんどん楽しくなってきさえする。これが路面とのトラクションを感じつつ、徐々に立ち上がり加速をあげていくバイクのコーナーリングに近い気がする訳だ。 書けば書くほど楽しい。手は疲れてくるけど、なんか脳内物質が分泌されてきてハイになるような・・・。こんなふうにdumpされた文章だから、文章としてはヒドい物なんだろうと思う。元々が文才の無いヤツの書く物だから大差無いっちゃぁ無いんだけど。

そんなこんなで紙で書く→紙で修正する(編集ではない)→丸写しでUP、という試みをおこなっている。